午前2時の映画鑑賞会

すきなものを、すきなだけ。

みかんの丘

 

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世界は互いに

閉じたまま

で、

いまだに

出会うことが

ない。

 

【あらすじ】

アブハジア自治共和国でみかん栽培をするエストニア人の集落。ジョージア(グルジア)とアブハジア間に紛争が勃発し、多くの人は帰国したが、イヴォとマルガスは残っている。マルガスはみかんの収穫が気になるからだが、みかんの木箱作りのイヴォは理由を語らない。ある日、彼らは戦闘で傷ついた二人の兵士を自宅で介抱することになる。ひとりはアブハジアを支援するチェチェン兵、もうひとりはジョージア兵で敵同士だった。彼らは互いに同じ家に敵兵がいることを知り、殺意に燃えるが、イヴォが家の中では戦わせないというと、家主が力を持つコーカサスのしきたりに則り、兵士たちは約束する。数日後、アブハジアの小隊がやってきて‥。戦争の不条理と人間性の尊さを描く感動作。多くの映画祭で受賞を果たしたエストニアジョージアの初の合作。

(第87回アカデミー賞、第72回ゴールデン・グローブ賞受賞作品。)

 

【作品プロフィール】

2016年9月17日日本上映 / 87分 / エストニアグルジア・ロシア

監督 / ザザウルシャゼ

脚本 / ザザ・ウルシャゼ

 

 

 

「みかんの丘」と「とうもろこしの島」、いずれの作品もジョージア映画特有のユーモアや人間的な温もりがあり、観る者にあたたかく力強い感動を残す。 主人公たちは戦火におかれても人間らしさ、人間としての営みを失うことはない。みかんを収穫し、とうもろこしを育て、敵味方隔てなく傷ついた者を助ける。 ――いったい戦争とはなんのために行うのか。誰が行うものなのか。戦争の不条理、愚かさを観る者に痛烈につきつけてくる。 アブハジア紛争が、双方の人々にもたらした傷は計り知れない。しかし彼らは苦しみ、模索しながらも、戦争によるあらゆる困難を乗り越えようとしている。 この作品は、戦火の絶え間ない時代を生きる私たちに、人間の寛容性、人間の誇りやその営みの意味を示し、争いによる憎しみの連鎖を断とうとする強い願いがこめられている。

 

 

■監督メッセージ

私の主観的な考えですが、人間にとって一番大切なものが芸術です。この「みかんの丘」には、人間の精神、尊厳にとってとても強い人間的なメッセージが込められています。私は映画、芸術が戦争を止めることが出来るとは決して思ってはいません。しかし、もし戦争を決断し、実行する人たちがこの作品を見て、少しでも立ち止まり、考えてくれるならば、この映画、芸術を作った意義があったと考えています。

(公式HPより)

 

 

 

無駄なく、洗練された空虚と慈愛。

個の世界の 接点と個が属する世界の接点は決してイコールではない。

この映画によりあらゆる人々の足が立ち止まることを願っている。

 


映画『みかんの丘』『とうもろこしの島』予告編

ヒトラーの忘れ物 (Land of Mine)

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大人が残した 理不尽な任務

少年たちが見つけるのは、憎しみか

明日への希望か ──

 

 

【あらすじ】

1945年終戦直後のデンマークを舞台に、地雷撤去を強制される敗残ドイツ軍の少年兵たちの過酷な運命を、史実に基づいて描いた。第2次世界大戦後、デンマークの海岸沿いに残された無数の地雷を撤去するため、元ナチス・ドイツの少年兵たちが連れて来られる。彼らを指揮するデンマーク人軍曹はナチスに激しい憎しみを抱きながらも、無垢な少年たちが次々と命を落とすのを見て良心の呵責にさいなまれるようになっていく。2015年・第28回東京国際映画祭コンペティション部門に出品され、軍曹役のローラン・モラーと少年兵役のルイス・ホフマンが最優秀男優賞を受賞した(映画祭上映時タイトル「地雷と少年兵」)。また出演俳優は演技未経験者も多く、見どころの一つとなっている。

【作品プロフィール】

2016年12月17日日本上映 / 101分 / デンマーク・ドイツ

監督 / マーチン・ピータ・サンフリト

脚本 / マーチン・ピータ・サンフリト

 

 

監督コメント

 

製作開始時は地雷撤去のパイオニアを題材にしていたが、リサーチの過程で少年兵投入の事実を知った。そして西海岸の墓地で、戦争終結後に若くして没したドイツ兵の墓を大量に見つける。深いショックを感じたサンフリト監督は、調査と並行し3年半を費やして脚本を書き上げた。「少年たちも戦時中は悪行を働きましたが、それは大人たちの洗脳の結果。そういう少年たちを罰したいのか。語るべきだと思った。皆が知るべき物語だと思った」。

デンマークも他の国と同様、自国の良いことを言いたいわけです。ユダヤ人がスウェーデンに逃亡するのを、どれだけ助けたか。しかし同様に、デンマークも暗い歴史を持っています。それを語り、学び、賢くなることが重要だと思ったんです」。作品づくりにおいて、サンフリト監督は「何かを学ぶこと」を重要視している。「私が思うに監督の仕事とは、エンタテインメント以上のものをつくることです。もちろん、純粋な娯楽作品も意義があると思います。しかし私は、楽しく鑑賞したその先に、何かに気づいたり学ぶことこそが重要だと思っています。今回は知られざる暗い歴史があること、そのなかで人間が人間をどう扱うべきなのかを伝えることが第一でした」。

 

その言葉通り、少年兵の希望とラスムスンの葛藤を通じて根源での人類愛を照射し、豊かな人間賛歌を謳い上げている。「国の暗部を糾弾するためではなく、むしろジレンマを描きたかった。憎悪や、目には目をという復讐はうまくいかないのです。互いに尊重し合うことが重要であり、ミイラ取りがミイラにならないように生きるためには、ということを描いています」と説明する。

 

(映画.com)

 

 

地雷は爆発するものだ。

映画を観るまで私はそのことを忘れていた。フィクションではなくノンフィクションかと思うほど緊迫感の続く映像。どこまでも続くような青い空と白い砂浜。そんな長閑な海岸線に埋められた約200万個の地雷を、強制的に連行されたドイツ軍の少年兵が撤去する――。何種か地雷の種類は出て来るが、撤去方法は同様で彼らは約200万個の地雷が埋まる海岸に一列に並び鉄棒を砂浜に刺しながら、一つ一つと手探りで探っていく。地雷を見つけると手で周辺の砂を取り除き、地雷の内部にあり核となる信管を抜くのだ。彼らを指揮するデンマーク人軍曹は海岸にある全ての地雷撤去を終えれば少年兵たちを故郷へ返すと言い、時に酷い暴力でもって撤去を促す。

地雷は爆発するものだ。

どんなに注意深く探ろうとも、彼らは10代の少年であり地雷の撤去など行ったことがない。一人一人と腕が飛び、足が飛び、命が飛び散る。デンマークにとってドイツは敵だ。ドイツ兵により領地は荒らされ、彼らの家族はたくさん殺されたのだろう。その憎しみが消えることはない。だがしかし過酷な環境下でひたむきに生きる少年達。異なる国籍・年齢・信仰を共に過ごす生活が凌駕する。

 

その人をその人たらしめるものは、決して所属であってはならない。

そんな大切なことを教えてくれる非常に貴重な映画だ。

 

 

 

ただあまり邦題の「ヒトラーの忘れ物」がしっくりきていない。この戦争はヒトラーだけのものではないし、この話にナチスは出てもヒトラーの名前は出ないからだ。かつ少年兵達は決してヒトラーの持ち物ではない。

 あまり英語に明るくないが、海外での上映タイトルは「Land of Mine」「Land  Mine」は訳すと「地雷」

 「Land」(所有物としての)土地、地所、国、国土

「of」…の、の所有する

「Mine」私のもの

 

ダブルミーニングとなっているこの英題を活かして欲しかった。この映画がヒトラーの色眼鏡を掛けて観ることなく、広く伝わって欲しい。 

 


【映画 予告編】 ヒトラーの忘れもの

 

 

沈黙 サイレンス 

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「人間がこんな哀しいのに 主よ 海があまりに蒼いのです」

 

 

 

【あらすじ】

遠藤周作の小説「沈黙」を、「ディパーテッド」「タクシードライバー」の巨匠マーティン・スコセッシが映画化したヒューマンドラマ。キリシタンの弾圧が行われていた江戸初期の日本に渡ってきたポルトガル人宣教師の目を通し、人間にとって大切なものか、人間の弱さとは何かを描き出した。17世紀、キリスト教が禁じられた日本で棄教したとされる師の真相を確かめるため、日本を目指す若き宣教師のロドリゴとガルペ。2人は旅の途上のマカオで出会ったキチジローという日本人を案内役に、やがて長崎へとたどり着き、厳しい弾圧を受けながら自らの信仰心と向き合っていく。スコセッシが1988年に原作を読んで以来、28年をかけて映画化にこぎつけた念願の企画で、主人公ロドリゴ役を「アメイジングスパイダーマン」のアンドリュー・ガーフィールドが演じた。そのほか「シンドラーのリスト」のリーアム・ニーソン、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」のアダム・ドライバーらが共演。キチジロー役の窪塚洋介をはじめ、浅野忠信イッセー尾形塚本晋也小松菜奈加瀬亮、笈田ヨシといった日本人キャストが出演する。

 

【作品プロフィール】

2017年1月21日日本上映 / 159分 / アメリカ

監督 / マーティン・スコセッシ

脚本 / ジェイ・コックス

原作 / 遠藤周作

  

小説『沈黙』に登場する架空の「トモギ村」のモデルの一つとして、江戸時代に大村藩が治めていた黒崎村を設定しています。 現在は長崎市の外海地区にある「出津文化村」の一角で、海をみおろす場所に文学碑があり、そこに遠藤周作が残した碑文。

 

「人間がこんな哀しいのに 主よ 海があまりに蒼いのです」

 

作中に台詞としてこのメッセージが出ることはないけれど、作品全体としてこの言葉ほどしっくり来るものはないと思う。宗教について深く学んだこともなければ、聖書を最後まで読んだことがない。だからこそこの映画のメッセージをきちんと受け取れたかと思うと定かではないけれど、伝わるものはとてもあった。短くはない映画ではあったけど話の構成や音響が非常に良かった。エンディング曲がなく自然の生活音の中、スタッフロールが流れるのも良かった。最後まで余韻に浸れる。

 

「信仰」とはなんだろうか。全てを賭しキリスト教を世界に広めようとする彼らは何を想うのか?神の絵を踏めずに殺される人と神の絵を踏み苦しみながら生きながらえる人の違いとは。思いは見える形にしないとならないのか。思想の共感は一体何を生むのか。その先に何があるのか。 作中の「日本人は自然や目に見えるものしか信仰しない」「この国は全てのものを腐らせていく沼だ」「腐った苗床では草木は育たない」知らず歪めてしまったキリスト教に人々は一体何を夢見ていたのか。

 

また「日本人は自然や目に見えるものしか信仰しない」この言葉により「日本人は目に見えないサービス・芸術にお金を払わない」という最近話題になったコラムを思い出した。もしかしたら遥か昔から根付く何かがあるのかもしれない。

 


『沈黙‐サイレンス‐』日本オリジナル予告